これは夢で見た話なんですけど。
私は父の病室にいた。
お世辞にも良い親とは言えない父だった。ご飯は食い散らかすし、脱いだ服を畳んだところを見たことがない。私が子供の頃、朝刊が無いと大騒ぎした父に郵便受けにあるのではないかという旨を指摘したところ「新聞を持ってくるのは女の仕事だろう」と怒った父だ。
父の病室。このあたりでは一番大きいんじゃないか。総合病院の、小さい個室。びっちりと四角くシーツを張ったベッドがひとつ。ブラインドが閉められているため、蛍光灯の光がつめたい。
「ここ、開けたら相当眺めがよさそうだね。またわがまま言ったのかな」
父に言及するときはいつも皮肉めいたことを言ってしまい、毎度苦しくなる。今の父は、家を出るまで私の中で最高の権威だった、この世で一番偉大で、恐ろしくて、強かった父と同じものだとは思えなかった。
高校を卒業したら家を出る。そう決意したきっかけは「偉大な父」にあった。
我らが偉大な父上は、自らと対等以上のものを嫌っていた。自分より愚かと認めた人間の愚かさをいちいち確認するのが大好きだった。そうして父による認定を受けて晴れて愚者となったら、その者は父による愚かさの指摘を曖昧な笑顔で受け入れなければならない。母はそれが上手かった。性別、出身、顔、話し方、その他の「劣っている」部分をいくら指摘されても、曖昧な笑顔で全てを受け入れていた。毎晩父が食い散らかした夕食を片付け、残り物を食べていた。その間父は母の故郷で起きた火事のニュースで笑っていた。
私は、女の人がお酒を注ぎながら男の人の話を笑いながら聞き続けるようなお仕事があるのを知っていた。私も母も、この町のお給料の相場よりも確実な生活の保証をされているのだから、父のふるまいを当然と受け入れなければならないと思っていた。
それでも私は人間であったので、お客様である父のいないところでは友達と遊んだりもしていた。もっぱら娯楽は音楽雑誌であった。鮮麗な衣装に身を包んだ別世界の人々を眺める。知らない機械を使って、私にできないことをしている人々が大勢綴じられている。その中でも、黒髪の巻き毛の彼にいたく目を奪われた。
小遣いの範囲内で買った安物のプレーヤーでこっそり彼の声を聴いた。決して上手ではない。曲の始まりの低音は無理をしているのがわかる。歌詞カードのクレジットを見ると作曲者は彼自身だった。そうやってまた好きになった。黒髪の彼への片想いは続いた。
父は、私の片想いがお気に召さなかったようだ。私がこっそり録画していた、彼がランキングの下の下の方にちらっと映るだけの番組をわざわざ私の目の前で再生する。なんだお前はこんなのが好きなのか。あぁこんな雑音。笑われる。父は偉いのでそうに違いないと思った。こんな雑音。月並みの、俺でもできる、低俗な。私は母譲りの笑顔をたたえたまま、テレビの前から動くことができなかった。父はひとしきり文句を言うと満足したようで、中途半端に手をつけた酢豚の皿を置き去りにして寝室へ消えた。
次の日、学校から帰ると私の部屋からは彼に関するものが無くなっていた。悲しくなるのは間違っているので、やたら空いた本棚を見ないで過ごすようにした。
それから何年か経った高校2年生の時、黒髪の彼が死んだ。理由は公表されなかった。毎月買っていた雑誌にはいつもより恭しいフォントで「急逝されました」に続くお祈りの言葉が印刷されていた。
父はカラフルな雑紙を処理したことなんて覚えていないだろう。しかしその適切な行いが、私の手元から生きていた彼を奪い去った。ああそうか、あのとき怒ればよかったんだ。
怒りとか反撃とか、実際に行動することは無かったが、家の外に出なきゃいけない、その一心で勉強した。大学進学なんていう最高の口実は逃しちゃいけないと思った。外に出て、ちょっと大きくなってから怒ろう。そう思っていた。
「それで帰ってきたらこれかあ」
「仕方ないな、誰だって歳はとる」
「大喧嘩するつもりだったのに」
冗談っぽく言ってみるが本気だ。私は許していない。家を出てから、母に会うことはあったが父には全く会っていなかった。電話すらしなかった。だから父がこんなふうになるまで会おうとしなかったのだ。ずっと黙っていた母も母だが。大喧嘩して、許さないという決意を固めるつもりだった。そして母を父の専属無給ホステスから救い出すつもりだった。好きな音楽を聴いて、好きな分だけご飯を食べる生活を送りたかったし、送らせてあげたかった。
でも父がこんな状態では、許してやらないといけない気がしてしまう。わざとじゃないことなんてわかっているが、人の道徳心につけこんだ、本当にずるい奴だとしか思えない。
「お前のことだから持ち物全部捨てるとか、その位するのかと思ったのに」
「さすがにそんなことしないよ」
「許したってことか?」
「ううん」
父のことは許していない。母と共に父の残飯処理に徹した10代を忘れられていない。資源ゴミに出された思い出を許していない。でも、私はもう大人になったので、良い娘、良い家庭、お父さん想いの娘さんを演じきってやる。弱りきった老人への同情という形でだ。泣いて拝みながら上に立ってやる。それが私の復讐だ。
「母さん待たせてるんだろ。急がないと」
「口出すぐらいなら荷物のひとつも持ってよ!」
「できませんよ、できません」
「なら黙って幽霊らしくしててよ」
黒髪の彼は無愛想にはいはい、と返事をしながら私の後ろをついてくる。太陽光の下ではかなりそれらしく半透明になってしまう彼は私以外には見えない。お世話になりました。看護師さんに挨拶を済ませて、亡き父の生活用品諸々の詰め込まれたバッグを背負う。
「会ってみたかったなお前の父さん、大声で歌ってやりたかった!」
透き通った彼は片方だけの目を細めて笑っていた。